1972年,地震活動から中央構造線を研究する目的で, 理学部附属徳島地震観測所が設置され,助手1,技官 1の定員が付けられました。観測所本館(第1図の赤丸, 観測点としては石井(ISI))は, 1974年9月に完成し,観 測と研究を開始しました。徳島市中心部から西へ約 10km,標高200mあまりの気延山北西麓にあります。 本館横の山体には奥行き約60mの横穴式観測坑が掘られ,上下動1成分の地震計が設置されました。石井(ISI) 以外に,上那賀(KMN),鷲敷(WJK),口山(KCY)の衛 星観測点にも奥行き5mから10mの横穴が掘られて上 下動の地震計1台が設置され,煤書きドラム式記録方式 による委託観測が始まりました。
ここでは,吉野川を中心に徳島平野が広がり,平野と北側の阿讃山地との境目に,有名な大活断層「中央構 造線」が東西に走っています。淡路島の南端と愛媛県土 居町の二つの矢印で挟まれた線状の地形がそれで
第1図 観測点配置(赤丸は観測所本館、白丸は衛星観測点)と中央構造線(2つの矢印弟示す)
す。
1946年12月,プレート境界型の巨大地震,昭和南海 地震が起こりま
した。その直後,四国東部では地殻(地表から深さほぼ30kmまでの部分)内にも活発に余震が 発生し始めましたが,特に後の1955年徳島県南部地震 の震源域で地震発生後1日以内に余震活動が始まりま した。1955年7月,徳島県南部地震(マグニチュード 6.4)が起こり,余震域は震度5の地域とほぼ一致しました。第2図は,高知大学と読み取り値を照合して求めた, 1975年と1976年の2年間の上那賀(KMN)周辺の微小地 震分布です。徳島県南部地震の発生から20年後も,まだ余震が起こり続けていることが分かりました。徳島地震観測網の最初の成果でした。その後,ここでは,1980年代の後半まで地震活動がありました。この地 域は地殻応力の変化に敏感な場所ということができます。
1982年からは,3年かけて,ミニコン・システムの導入,東西と南北の水平動2成分の追加,観測点の テレメータ化(各観測点の記録を電話回線によりリアルタイムで常時収録すること),隣接する東京大学
地 震研究所地震地殻変動観測センター和歌山地震観測所と高知大学理学部附属高知地震観測所との専用回線 によるリアルタイムのデータ交換が進 められました。同時に,塩江(SON)と池田(IKD)(第1図の阿讃山 中の2点)の観測点を新設し,口山と鷲敷は 廃止しました。データ交換で和歌山地震観測 所(東京大学)から4点,高知地震観測所(高知大学)から4点の観測データが加わり,本 館への集中収録となって時刻の精度も向上し, 初動であるP波と主要動であるS波の読み取 り精度も向上しました。
平行して,広島地震観測所(東京大学地震 研究所地震地殻変動観測センター),高知地 震観測所(高知大学),徳島地震観測所の9点 の上下動データを和歌山地震観測所(東京大 学)に送り,紀伊半島のデータを加えて自動処理するネットワークを形成し,大学の枠を越えて協力して いくことになりました。これは南海ネットと呼ばれました。第3図は,この南海ネットによって求められ た震源分布に基づく,紀伊半島から伊予灘へかけてのマントル(地殻より深い部分)の地震の等深度線です。 これは,沈み込むフィリピン海プレートの境界面を示しています。全体として随分とグニャグニャしてお り,四国では深さ40km 程度にまでしか達しておらず,紀
伊半島や九州では急傾斜で,1枚のフィリピン 海プレートが潜り込んでいるのだろうかと不思議に思うような形をしています。四国の深さ30km あたり では,マントルの地震が10°から15°位で緩やかに北に傾斜しています。
1990年 6 月には,本学の地震予知関連分野が防災研究所附属地震予知研究センターへ統合され,徳島地 震観測所の名称は「徳島観測所」へ変わりました。
1995年の兵庫県南部地震は,微小地震観測の状況を根本的に変えました。1997年末,徳島観測所は他の 微小地震観測所とともに,衛星テレメータ・システムと地震予知研究センターのネットワーク・システム へ移行しました。また,科学技術庁(当時)の Hi-net (高感度地震観測網)や大学の観測網は国の高感度基 盤観測網として位置づけられ,気象庁がデータの読み取りと一元的な処理を行い,利用者に提供する体制 も整備されました。ここで徳島観測所は,4観測点をもって基盤観測に協力することとなった訳です。
第4図は,中央構造線付近の 4 年間の震源分布図を示しています。中央構造線では,微小 地震は発生していないことが分ります。「現在の時点では中央構造線は地震学的には
活動的でない」という ことができます。 中央構造線は,西南日本の地質区分を内帯(北側)と外帯(南側)に大きく分ける大地質構造線です。長野 県を南北に走るフォッサ・マグナ(大地溝帯)とともに,明治時代から地質学的に研究されてきました。1970年前後からは,プレート・テクトニクス の枠組みに基づく島弧の活構造の研究が進み, 「中央構造線は右横ずれ(断層を境に北側が東 向きに,南側が西向きに)運動している」とい う学説が出されました。最近では,中央構造 線の四国中東部の約200㎞の部分(主として徳 島県内)は,「最近数万年間の平均変位速度は 5~10mm/ 年と大きいにも関わらず,現在ま での1000年以上の歴史時代には大地震は一度 も発生していないので,近い将来の大地震の 発生源として注意しておくべきである」と考えられるようになりました。この考えについ ては70年代から80年代にかけて,縦ずれを主張するグループと横ずれを主張するグループによる地質,地 形の評価をめぐっての激しい論争がありました。そして80年代の終わりから90年代の初めに,縦ずれ派は, 断層運動の時代を決める上での鍵層である土柱礫層の形成年代を「数万年前」から「百数十万年前~数十万 年前」と大幅に修正し,他方横ずれ派は,断層掘削調査の結果から断層活動を歴史地震と結び付けて議論 を始める段階へ移りましたが,論争は決着が付かないまま現在に至っています。 徳島県では,阪神・淡路大震災をきっかけに活断層である中央構造線に社会的関心が集まりました。そして1997年から1999年まで 3 ヵ年をかけて,断層掘削調査を中心に中央構造線の調査が行われ,本観測所 の教員も調査委員会に参加しました。この調査と愛媛県での調査結果に基づき,国の地震調査委員会は「鳴 門市付近から伊予灘の佐多岬に至る四国の中央構造線全体が16世紀に活動した,あるいは同時に複数の区 間に分かれて活動した」と結論付けました。長期発生評価による30年発生確率は0-0.3%,100年発生確率 は 0-2 % とされています。
昭和南海地震から62年が経過し,社会の関心は「次の南海地震」に向っていきます。同時に,中央構造線 の問題は徳島に地震観測所が設置された70年代の状況とは全く違った形で残っています。今後も引き続き 研究が深められる事が期待されています。